自ら命を絶った評論家、江藤淳氏の『母恋し』が甦る

 

 7月7日の毎日新聞書評欄で、三浦雅士さんが絶賛していた本は、平山周吉さんの『江藤淳は甦る』(新潮社刊)である。
 この度、小林秀雄賞の受賞が発表された。
 タイトルは「全編を貫く母と妻の存在」である。
 少し長くなるが、私の感想にピッタリで、導入部を引用させていただく。
 「江藤淳の自殺に驚いたのは1999年7月。享年66。没後20年である。本書はその江藤淳の評伝。力作かつ労作だ。800頁(ページ)近いが、読ませる。いわば痒い所に手が届くような仕上がりで、なぜと思う瞬間にすっと内側に入り込んで貴重な資料を示し、疑問を氷解させ、再び俯瞰する位置に戻る。巧みだ。
 昭和前半を代表する文芸評論家が小林秀雄ならば、後半を代表するのが江藤淳。慶応大学の学生だった頃、処女作『夏目漱石』で文壇に登場し、あえて俗に語れば、初め埴谷雄高にそそのかされて小林秀雄を徹底的に批判し、後に大岡昇平に諭されて大転換し小林秀雄絶賛に変わる。それだけではない。革新とも思える立場から保守反動に転じ、数次のアメリカ滞在を経てからは逆に戦後のアメリカ占領軍の検閲を暴き、日本人に覚醒を促すという、いわば左右両翼から忌避されるような日本主義者の相貌を呈するようになる。その徹底性によって、三島由紀夫、吉本隆明とも親しく交わっている。後略」
 もう1つ。
 8月29日号の週刊文春で、「私の読書日記」という欄に、仏文学者の鹿島茂さんが、この『江藤淳は甦る』の感想をお書きになっている。
 引用している部分が傑作で、江藤さんが年齢を1つサバ読んでいたという件である。
 「前略。その取っ掛かりとなったのが江藤淳の年齢問題だ。『自殺の新聞報道を見て私が驚いたのは、年齢のことであった。享年六十六、とどの新聞も報じていた。昭和八年(一九三三)生まれとされていたが、実は昭和七年(一九三二)生まれだったのだ。芸能人でもあるまいし、江藤淳ともあろう人が、なぜそんな小手先の改変をしていたのか』後略」
 と鹿島さんは本書から引用している。年齢詐称を鹿島さんも含み笑いしているのだ。
 私も江藤さんが年齢をサバ読んでいたと知って驚いた。後輩から見れば昭和8年生まれでも昭和7年生まれでも、どっちでも同じような昭和ヒトケタに感じるが、江藤さんにとっては重大問題だったのか。私の次兄が昭和8年生まれだし、彼の従兄に同じ8年生まれが2人もいて、三羽烏と仲が良かったのは、親たちの意識の中に、8年生まれへのこだわりは確かにあったらしい。
 何故なら、今の上皇様がお生まれになる前、内親王ばかりが誕生して、世間では男子の誕生が渇望されていた。だから、昭和8年に皇太子さま(当時)が生まれると、「皇太子さま、お生まれなした」という歌が作られたと、私は母によく聞かされたものである。
 だから、私から見れば、ド右翼の江藤さんは、当時の皇太子と同じ年の生まれとなりたかったのではないか、というのが私の独断解釈である(失礼)。
 私が記憶する江藤淳さんは、意識した時から、もう大文学者で、絶対に近寄りたくないと思うほど有名で恐ろしい論客だと思っていたので、「ノーサンキュー」と関心がなかった。
 小柄だけど威圧感があり、メディアに出てくる彼は、喋り方のためか、「おい、下々の奴らにはわからんだろうが」という風な、言葉遣いは丁寧だが、どこか人を小馬鹿にしているような印象があって、余り好きではなかった。
 そもそも小難しい文芸評論なんか私には荷が重いからどうでもよかった。
 加えて、江藤さんは次兄の年代のスターだったけれど、兄の友人には秀才が多く、中の1人は有名な心理学者だったので、いろいろと間に合っていた。
 小柄で丸顔の江藤さんは、高身長、イケメン(昔の言葉ではハンサム)好きの私の、範疇には入らないタイプの男性だった。
 影の声。「お前なんかの範疇に入れてもらいたいとは思わない。余計なお世話」
 というわけで無関心だったのが、ある時突然に、大関心事の人になったのである。
 それは、当時、私が定期購読していた朝日新聞社発行の週刊誌・「朝日ジャーナル」に、江藤淳さんの『アメリカと私』という連載エッセイが載り始めたからであった。
 細部は全く忘れてしまったのだが、これまで敬遠していた大文芸評論家の江藤さんが、「あれれ、結構とっつきやすい人であるよ」と思い始める切っ掛けがあったのだ。
 それは、『アメリカと私』の中で、江藤さんがアメリカから帰ってくる場面だった。
 飛行機を降りて、首都高速道路のことだろうが(当時、国際線はみんな成田着だったと思うのだが?)、車が<高速道路>を走り出したことに彼はびっくりしていたのだ。
 アメリカという文明先進国から帰国して、へたへたの地上の道路を走ると思っていたら、突然、アメリカ並みの空中の<高速道路>を走り出したので彼は驚くと同時に、日本人の技術力に鼻高々だったのだろうか。あの大評論家も可愛いじゃないの、と思った記憶があり、それ以降、私はこのエッセイを愛読した。
 突然に休載された時には、私は編集部に電話をかけて「なんで突然なくなったのか」と文句を言ってやった。いかにも編集者が長そうな中年のアルトの声の女性が電話に出て、「愛読してくださって有難うございました」とお礼を言われた。これが私の江藤体験である。
 残り少なくなってきたが、男の子を産み育てた経験のある私から言わせれば、江藤淳さんは一生涯、4歳半で亡くなった「お母様恋し」で生きた方のように思う。
 どなたが幼児の淳夫(彼の本名)さんの心の中の育ての親だったかわからないが、得も言われぬ母と息子(恋人もどきの)の密着した愛の疎通はなかったのではないか。若くして逝ったばかりに、淳夫さんは自分流に亡き母親を美化して、恋して、それは歳と共に増幅した。
 もう一点挙げるとすれば、江藤さんにはお子様がいなかった。子供をもたない大人は、何時までも母離れが出来ない。ましてや若くして亡くなった母への憧憬は、彼の人生を一貫して支配していたのだ。66歳で亡くなった江藤さんを母恋しの可愛い坊やのように感じる。
 差別的発言で申し訳ないが、人間は子供を育てて初めて、親離れができる。