日本映画『関ケ原』と米国映画『ダンケルク』の違い

 

 たまたま同じ時期に公開されている2つのスペクタクル映画を見て、日米の違いを再認識した。
 『関ケ原』は有名監督の原田眞人さんが演出した大アクション映画で、関ケ原における西軍と東軍の6時間における死闘を描いている。日本映画としてはスケールの大きな野外戦闘シーンが続き、感心して見た。
 だが、不満は一杯ある。若い観客を動員するためか、テレビで人気の俳優を主要な役につけていることで違和感だらけ。
 例えば、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋に扮する東出昌大くんは、グラビアのモデルだった人で、それこそ昔風に言えば9頭身の体型だ。チョンマゲをつけても戦国武将にはなれない。石田三成役の岡田准一くんと並ぶと大人と子供みたいで滑稽である。戦場で悲惨な顔をして丘の下を覗き込む場面なんか、まるでマンガであった。
 昔の武士は「馬上豊か」と言われ、短足で、馬に乗ると腰から上の上半身が立派だが、身長は低かったのである。島左近に扮した平岳大くんも大きいが、彼はデカ面だからあまり違和感はなく、小顔の長身長が1番合わないのだ。
 もっと気に入らなかったのはNHKテレビ小説「ひよっこ」で人気爆発の有村架純ちゃん。だいたいこの物語の中で、女の伊賀忍者・初芽など登場させる必要があったのだろうか。司馬遼太郎の原作には登場するのかもしれないが、男の物語である壮大な合戦シーンに、女の忍びで、丸ぽちゃのお嬢ちゃんなんかいらないのである。忍者は体を酷使するからカリカリに痩せているものだ。こんなに下膨れの女はあり得ない。
 女はお歯黒をつけた訛りだらけの北政所(キムラ緑子)だけで十分だった。
 石田三成が忍びの初芽に愛の告白なんて場面はマンガチックで笑ってしまったし、徹底的に男の世界を描いた方が良かった。
 その三成役の岡田准一くんだが、この方、いつみてもクソ真面目なキャラで、今回の三成の描かれ方がそもそも「正義!」であるから、岡田くんの融通の利かなさは似合っていた。しかし、主人公に共感する気持ちは出てこない。
 「はい、三成君、頑張りましたね、終わりっ」てなものだ。悪役に描かれている徳川家康(役所広司)があまりにもド迫力なので、対照的に三成は白皙の美青年に仕立てたかったのだろうが、それにしては彼の悩める内面がさっぱり伝わってこなかった。
 さて、一方のアメリカ・ワーナーブラザーズ映画『ダンケルク』(実際は米国、英国、仏国、蘭国共同)は、徹底して女が出てこない。船上の看護婦ぐらい。
 クリストファー・ノーラン監督作品である。彼は来日した時にNHKのニュース番組でインタビューされていたのを私も見た。CGは使わないし、ブルーのバックで撮影し、後で合成するのもやらないと言っていた。つまり、実写にこだわる監督なのでリアリティがあるのだ。
 第2次世界大戦初期に、独軍に追い詰められた連合国側の400,000人が、フランスの北の端の港湾都市、ダンケルク(イギリスとフランスの直通列車ユーロスターで、車掌のアナウンスが突然、英語→仏語、仏語→英語に代わるカレーという町の少し北側に位置する)に集結する。
 彼らを救い出すためにイギリスの司令部は軍艦や民間の漁船、小型船など850隻を総動員して救助に向かうのだが、敵のドイツ軍は空からの機銃掃射で彼らをなぎ倒す。だが、英仏軍を追い詰める独軍兵士は全く出てこないのである。
 この映画のユニークなところは、映画の初めに「防波堤・1週間の出来事」と「海・1日の出来事」と「空・1時間の出来事」と説明が出る。ダンケルクの防波堤の上に夥しい兵士が縮こまって座っている。彼らの救助の有様と、遅れてきたトミーら主要人物たちの必死の救助船へのすがりつき、海軍中佐など司令官の動静などが「防波堤」で描かれる。「海」の編は小型船ムーンストーン号に乗って、ダンケルクに救助に向かう父親と息子とその友達の1日。「空」は英国空軍と独国空軍の空中戦の1時間。
 長さの違う3つの時間の中にいる人間たちを、断末魔のダンケルクからの脱出という点で最後は収斂させるのである。余程、注意深く見ていないとこんがらかる。また、私が面白かったのは、カーキ色の兵士のコートばかりの中で、堤防の上に立って命令を伝えている海軍中佐は防波堤の管理責任者。彼だけが超カッコいい海軍の紺色の上等な帽子とコート姿である。ただ、なんで彼は機銃掃射に狙われないんだろうと不審だったけど。
 夥しい人間がこの脱出劇で命を落としたが、唯々諾々とドイツ軍の犠牲にならずに、戦場の兵隊としては不名誉な撤退をしたおかげで、後の独軍壊滅をもたらしたのであり、戦勝記念とは正反対の撤退をテーマにした歴史ドキュメントとしてまことに面白かった。
 音響効果が素晴らしく、最初は体調が悪くならないかと心配するほどの効果音の洪水である。弦楽器がまるで常動曲のようにギコギコギコと伴奏音を奏でたり、四方八方から機銃掃射の弾の音が被さってきたり。耳が敏感な私は音で疲れた。
 最後の最後、英国に逃れられたトミーたちは、全体の状況が皆目わかっていないので、列車で町に向かう途中、停車した駅で、印刷したての新聞を窓越しに少年からもらう。それをむさぼり読んで、初めて自分たちの体験の苛酷さも知り、助かった喜びも顔に出た。非日常が日常を取り戻した瞬間とでもいうか、テレビがなかった時代の戦場をまことに上手く表した場面だと思った。