何故か憎めない殺人鬼を描いた映画『ジョーカー』の哀しさ

 

 第76回ヴェネツィア国際映画祭で、金獅子賞を受賞したアメリカ映画、『ジョーカー』を見た。ジョーカーとはそもそもコミックの「バットマン」での敵役であるが、シリアスな映画が対象になることの多い世界3大映画祭の最高賞に、いわば劇画の登場人物を主人公にした作品が選ばれるとは大変珍しいことである。
 主演のホアキン・フェニックスは1974年生まれの45歳、プエルトリコ出身の演技派であるが、初めは心優しく貧しい母1人子1人のアーサー・フレックを演じている。このアーサーが、後に『ジョーカー』と自ら呼ぶ殺人鬼に変貌するのである。
 監督はもともとドキュメンタリストとしてデビューしたニューヨーク大学芸術学部出身のエリート、トッド・フィリップスである。
 講釈はこれぐらいにして、私はコミックにあまり興味がないし、『ジョーカー』の宣伝動画を見て、ピエロメイクのホアキンの顔がグロテスクだったので、「こういう映画はノーサンキューでござんす」と思い見に行かなかったのだ。
 しかし、フランス式見地から、結構ひねくれた結果を出すヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞となれば、何かありそうだと思って前言を翻し、映画館に出かけたのであった。
 某シネマコンプレックスの大きな会場では、平日の昼間が災いしてか、閑古鳥が鳴いている。ニュースによれば、第1週から大ヒットだとか、「興行収入〇〇億円」と出ていたが眉唾である。少なくとも私が入った大きな小屋では、観客数は10パーセントもいなかった。
 客数が少ないと薄ら寒いし、あのメイクは怖そうだし、と、始まる前は後悔していた。
 ところが、映画が始まってものの10分か20分で、私はもう主人公のアーサーに取り付かれてしまったのである。
 架空の都市、ゴッサム・シティは衛生局のストライキで街中にゴミの山が散乱し、悪臭が漂っている。この町のアパートに、優しい孝行息子のアーサーは心臓と精神を病んだ母親のペニーと2人で暮らし、貧しい街のピエロで生計を立てていた。
 商店街の店じまいセールを宣伝していたアーサーは、持っていた看板をチンピラ・悪ガキ3人組にかっぱらわれて破られ、臭い路地の上に転がされてしまう。
 ストリート・ギャングの暴力で袋叩きにされた、弱者である横倒しのアーサーの哀しいピエロ顔を見て、この作品の意図がビビッと伝わってきた。
 チビギャングに襲われたのに、契約不履行で責められ、就中、同僚が「これで身を守れ」と貸してくれた拳銃を、仕事先で床に落とし、事務所から解雇されてしまうのだ。
 その帰路、地下鉄の中で綺麗なスーツ姿の3人の男性が、女性客をからかっているのを注意したら、逆にアーサーが酔った3人から返り討ちに遭ってしまう。
 間が悪く、たまたま持っていた拳銃で、アーサーは証券マンらしいサラリーマン3人を撃ち殺してしまうのである。人生の転落の始まり。
 最後の1人を地下鉄の階段の途中まで追いかけてゆき、後ろからとどめを刺す場面の演出がすごい。
 「犯人はピエロ姿」とさざ波のようにうわさが広がり、ひたひたとアーサーの身辺にも捜査が近づいてくる。しかし、大衆は犯人を英雄視する。証券マンは富の代表であるから。
 一方、愛する母親はポストに手紙が来ていないかと毎日待っている。昔、街の郊外にある大富豪のトーマス・ウエイン邸で使用人をしていた時、ペニーはウェインの子を身籠って、それがアーサーであると知らせ、2人の窮状を救ってくれと毎日手紙を出していたのだ。
 しかも、その事実はなく、すべては頭のおかしい母親の妄想であり、事実は、愛情深く自分を育ててくれた母親だと思っていたペニーが、アーサーは他人からもらった養子であり、当時付き合っていた男が、子供の頃のアーサーを虐待して頭に損傷を与え、それがもとで、アーサーは今でも、人前で緊張すると何故か「ゲラゲラと笑いだす」病に苦しめられていたのだ。
 私はここで胸が痛んだ。今、日本でも、年中、血のつながらない父親による児童虐待が頻発している。耳を塞ぎたい事例が次々と報道されている。
 私は「幼い子を虐待する親は、全員、裁判抜きで縛り首にしたい」という持論の持ち主である。それくらい児童虐待は許せない。
 さて、アーサーはもう1つ、同じアパートに住むニグロの美人シングルマザーに思いを寄せていたのだが、付き合っているはずが、すべては彼の妄想であったとわかる。
 プッツンした彼は、体調が悪くて救急車で運ばれた母親を、枕で窒息させて殺してしまう。
 それどころか、お笑い系の人気テレビ・バラエティでスター司会者の、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が、街のコメディアンとしてちょっと画面に映ったアーサーに関心を持ち、出演を依頼してきた時に・・・。
 これ以上は、書くまい。
 いよいよ、心優しい孝行息子だったアーサーが、不気味なピエロの笑い顔のメークで、本物の悪魔に転落してゆくプロセスが始まる。ダンスも物悲しい。
 だが、見ているわれわれ観客は、人前で笑う場合でない時に笑いこけて、周りの人々から総スカンを食らうアーサーを、悲痛な思いで見ることになる。
 決して彼を憎めないのである。
 罪は罪。
 同情の余地は全くないのだが、何故か彼が哀れで仕方ない。
 怒れないのである。
 大スターのロバート・デ・ニーロが、司会者として話術が巧みであるにもかかわらず、次第にカタストロフに向かってしまうやり取りも痛ましいが、何よりもホアキン・フェニックスの奇妙なピエロ顔の、笑いが止まらない痛ましさの名演技。
 幼いころの大人から受けた虐待が、人間の一生に如何に悲惨な結果をもたらすかを描いた傑作だと私は解釈する。
 兎に角、哀しい映画である。アーサーを誰か救ってやれないか。